題名のない文章たち

日記のような、そうでないような、そんなただの文章のあつまり

部屋と本

今週のお題「わたしの部屋」

私の部屋には本がたくさんある。と言っても、ちょっと本が好きな人程度の量しかないので本好きの人達には劣るくらいと形容しておこうと思う。

そして、私は生粋のめんどくさがりやである。それら二つの要素が重なるとどうなるかと言うと、もちろん本が散らばるのだ。本棚に片付けるということの面倒くささは、めんどくさがり屋ではないたくさんの人達には理解し難いことだろう。

まず、買ってきた本は本棚の中には入らない。袋から出してベッドや机から手の届くところに積み重ねられる。読み途中の本は、読んでいた場所に積み重ねられる。机で読んでいたなら机の上に、寝る前に読んでいたのなら枕元に、移動中に読んでいたのならそのとき持っていた鞄の中にそのままになる。読み終われば読み終わった場所の一番近くの読み終わった本たちが積み重ねられている場所の上に乗せるだけだ。

というわけで、私の部屋にはいくつもの本の山がある。気が向いたとき、そして「これではいかん」と思ったときに気まぐれに本棚の中に読み終わった本は入れられるが、それだけではもちろん全ての本が片付けられるという訳ではない。片付けようと思ったものの、その最中に気になった本に手を出してしまいそのとき片付けられるはずだった本たちの山が本棚の上にできてしまっていさえする。

それに私はその場に積み上げられた本たちは、その場所に片付けられているような気がする。そういえばこんな記事も書いていた。

 

natsumikan5.hatenadiary.jp

 この記事を書いた時よりも散らばる者達は増えている。私の部屋には本が欠かせない。本があるから私の部屋であり、私の部屋には本が必要なのだ。

まだ私に読まれていない本たちは、自分の場所でじっと出番を待っている。もう読まれた本たちは、置かれてしまった自分の場所にじっと佇んでいる。もちろん綺麗な部屋ではないが本に囲まれた部屋が私は好きだ。

これからもきっと、本は増え続けるだろう。

 

めんどくさがりというのは病だと思う。

皿を洗う、洗濯物を取り込み畳む、畳んだものを片付ける、部屋を片付ける、お風呂に入る、着替える…といったちょっとしたこともなにもしたくなくなってしまう。

食事を作ることさえもめんどくさいのでしたくない。買い物に出かけるのもめんどくさいので食べない。

本を読むのも、録画した番組を見るのも、勉強するのもめんどくさい。

 

なにかしなければ、こんな何もせずに転がっているだけの生活は止めなければ、今日もまた1日何もできなかった、と自己嫌悪は募るばかりででも何もできない。動き出せない。

やはり病のようだと思う。何もできないのならせめて、ただそこにあるだけの石ころや木のようになりたいと思う。そうやって転がっていつか朽ちてしまうのを待つ石ころになれば、自己嫌悪することもなくなるだろう。

そして今日もまた、何もできなかった。

3歳児の写真を見て思ったこと

どうやら世間では、虐待のすえ3歳児が殺されるという痛ましい事件が起こったらしい。
子供は親の人形ではないし、自分と同じように目で物を見て頭で物を考えているのだということが分かっていれば、そのようなことができるとは私には思えないのだが、それは今回私が感じたことの本質ではない。

更に、私はこの事件がどんなに悪いことであって親は罰せられるべきであるとか、子供が可哀想すぎるとかそういうことを言いたい訳でもない。

私が衝撃を受けたのは、ネットニュースに挙がっていたその3歳児の写真である。きちっと正座をし、背筋を伸ばし、肩に力が入り、縮こまっている。

一般の人から見れば、こんな小さい子供がこんなに縮こまって・・・と衝撃を受けるのだろうと思うが、私が衝撃を受けたのはそういう理由ではなくそれが私の姿に見えたからだ。

私は一般的な家庭で何不自由なく育ったということだけまずは断っておく。

それなのに、自らが傷つく事を何よりも恐れて自分の中の一番大切な何かを守るために自分の周りに殻を作っていた時期がある。(ある意味では今でもそうだし、誰にでもその殻は存在するものではあるのだが)私の殻の何が問題であったかと言うと、それが必要以上に厚く硬かったことだ。その当時私は必要以上に厚いその殻を、更に強く厚くしていたように思う。

その殻は私の行動と気持ちまでもを外に出さなくなってしまっていた。何もしなければ、傷つかない。何も言わなければ、誰にも嫌われることはない。そんな間違った考えに雁字搦めにされ、自分を守るためのものが自分を苦しめていた。

体を縮こめた3歳児の姿が、その当時の私の姿と重なって見えた。実際に正座で縮こまっていた訳では無いが、なぜか重ねずにはいられなかった。周りの人間に、生気がないと言われた理由が今なら分かる。

その3歳の子供も自分を守ることに必死になっていたのだろうと想像してみる。自分を守るために一生懸命に盾を作る。固く強く、誰にも破られないものだ。体を守るためのものではない。それは心を守るものだ。

もしも、生まれ変わりというものがあるのならば、次は幸せな家庭に生まれて欲しいと思う。そのように自分を守る殻を作る必要のない場所に。

私はと言えば、厚くなりすぎた殻を今もまだ少しずつ内側から壊している最中である。

新年の抱負

どこかで書いておいた方が戒めになるので記して置くことにします。

必ず自分の満足のいく1作を書き上げること。
短くてもいい、下手くそでもいい。
とにかく何が何でも書き上げること。

それ以上は何ものぞみません。
気の向くまま楽に過ごしたいものです。

見つめられる

その人は私の目をじっと見つめた。
私はその視線が痛くて、自分を守っている何かを貫こうとするその視線を避けたくて、目を逸らそうとした。

出来なかった。ちゃんとこちらを見なさい。ただ一言言われただけなのに、私の体は固まり目と目で見つめ合うことになった。

その目は私の体の中を、心の中を、隅々まで見ているようで、その視線がただただ痛くて、でも目を逸らすことは決してできなかったので、私はどうすることもできずそのままじっと耐えていた。

私を見ていたその目は、私を強く強く守っていた何かを貫いた。それは突然やってきた。もう目を見ることはできなくて、息をするのも苦しくて、そして何より涙が溢れ出てきていた。何故泣いているのか私には分からない。

その人は私の目を見つめるのはやめて、頭を撫でていた。でもやっぱりその人の目は、私を真っ直ぐに見つめていた。心がざわざわした。漣が立っているようだった。大きな波ではない。しかし確かな波だった。数日たった今でもその波は収まっていない。

寂しい目

動物は好きだ。
猫が好きだ。
犬も好きだ。

幼い頃は艶やかな栗色の毛をしたダックスフントが家にいた。頭は白髪になった、おばあちゃんだった。私のひいおばあちゃんの後ろをいつもちょこちょこと歩いていた。

目はいつも寂しそうだった。

一昨年、弟がどうしてもと言い出して捨て犬を引き取った。
まだまだ子供のそれでもやっぱり艶やかな黒い毛をした雑種の女の子。

誰かが帰ってくると、玄関に飛び出して一番に出迎える。1日に何回でも外に行きたがる散歩好き。普段は甘えたりはあまりしないけれど、留守番するときは窓の前でじっと誰かの帰りを待っている。お座りも待てもちゃんとできる。

でも、私は彼女の目を覗き込めない。
彼女の目もいつも寂しそうだから。

なぜなのかは分からない。
彼女には、自分が人間でないことが分かっているからだろうか。
彼女の世界が小さな小さな家の中にしかないことが分かっているからだろうか。
彼女の命が周りの家族よりも短いことを理解しているからなのだろうか。

彼女の目を覗き込むと、私は自分がいつか必ずこの世界から消えてなくなることを突きつけられているように思える。

動物は好きだ。犬ももちろん好きだ。
好きだけれど嫌いなのだとも思う。

散らばる者達

本棚に入れられずに散らばってる本たちをふと数えてみた。

ベッドの上 3冊
CDコンポの上 3冊
カラーボックスに並べられたCDの上 漫画を含めると4冊
テーブルの横 漫画16冊と本4冊
机の上  8冊か7冊積み上げられている

彼らはいつ、どこから来てどうしてその場所に収まってしまったのだろう。本棚にまだ空きはあるはずなのに、散らばった場所でそこが正しい居場所であるかのように静かに横たわっている。