題名のない文章たち

日記のような、そうでないような、そんなただの文章のあつまり

3歳児の写真を見て思ったこと

どうやら世間では、虐待のすえ3歳児が殺されるという痛ましい事件が起こったらしい。
子供は親の人形ではないし、自分と同じように目で物を見て頭で物を考えているのだということが分かっていれば、そのようなことができるとは私には思えないのだが、それは今回私が感じたことの本質ではない。

更に、私はこの事件がどんなに悪いことであって親は罰せられるべきであるとか、子供が可哀想すぎるとかそういうことを言いたい訳でもない。

私が衝撃を受けたのは、ネットニュースに挙がっていたその3歳児の写真である。きちっと正座をし、背筋を伸ばし、肩に力が入り、縮こまっている。

一般の人から見れば、こんな小さい子供がこんなに縮こまって・・・と衝撃を受けるのだろうと思うが、私が衝撃を受けたのはそういう理由ではなくそれが私の姿に見えたからだ。

私は一般的な家庭で何不自由なく育ったということだけまずは断っておく。

それなのに、自らが傷つく事を何よりも恐れて自分の中の一番大切な何かを守るために自分の周りに殻を作っていた時期がある。(ある意味では今でもそうだし、誰にでもその殻は存在するものではあるのだが)私の殻の何が問題であったかと言うと、それが必要以上に厚く硬かったことだ。その当時私は必要以上に厚いその殻を、更に強く厚くしていたように思う。

その殻は私の行動と気持ちまでもを外に出さなくなってしまっていた。何もしなければ、傷つかない。何も言わなければ、誰にも嫌われることはない。そんな間違った考えに雁字搦めにされ、自分を守るためのものが自分を苦しめていた。

体を縮こめた3歳児の姿が、その当時の私の姿と重なって見えた。実際に正座で縮こまっていた訳では無いが、なぜか重ねずにはいられなかった。周りの人間に、生気がないと言われた理由が今なら分かる。

その3歳の子供も自分を守ることに必死になっていたのだろうと想像してみる。自分を守るために一生懸命に盾を作る。固く強く、誰にも破られないものだ。体を守るためのものではない。それは心を守るものだ。

もしも、生まれ変わりというものがあるのならば、次は幸せな家庭に生まれて欲しいと思う。そのように自分を守る殻を作る必要のない場所に。

私はと言えば、厚くなりすぎた殻を今もまだ少しずつ内側から壊している最中である。